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RESEARCH

誤記の謎と新発見

フレデリック・クレインス(教授)
2021年11月12日

 歴史家を悩ませる問題の一つとして、扱う史料における誤記が挙げられる。筆者が研究対象としている江戸時代初期の平戸オランダ商館文書の各所にも誤記がみられる。たとえば、平戸オランダ商館長ジャック・スペックスによる「1611年6月8日」付の書状の日付である。

ウィリアム・アダムス宛て書状

平戸オランダ商館長ジャック・スペックスよりウィリアム・アダムス宛書状、1611年6月8日付〔1612年6月8日付〕(ハーグ国立文書館所蔵)

書状の1行目拡大画像

(拡大部分)日付が記されている最初の行 “Laus deo Adij 8 Juny anno 1611 In Firando”(神を讃えよ、1611年6月8日、平戸にて)

 書状に宛先は明記されていない。読み進めると、宛先の人物から送信された「和暦3月29日」付の書状への返答であると分かる。内容は商品の取引や国内情勢に関する情報が主なものである。特に、宛先の人物が「王」に大量の鋼鉄および砂鉄を届けたという記述が目を引く。通常、「王」は徳川秀忠を指すが、この場合、文脈からは、家康のことではないかと思われる。

 さらに、スペックスが駿府で家康に謁見した際に家康から贈られた刀を宛先の人物が預かっているとの記述もみられる。ところが、スペックスが家康に謁見したのは、書状の日付よりも2ヶ月後の1611年8月17日である。どうも符合しない。スペックスが1612年6月8日に助手マチアスに送った書状の内容と照合した結果、日付は誤記で、正しくは1612年6月8日付であり、また当該書状を含めた4通は、家康の側近であった英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)に宛てられたものであることが判明した。

 確かに、スペックスが1611年に家康に謁見した時にはアダムスが仲介役を務めている。宛先を特定できたことによって、当時、家康からスペックスに贈られた刀を預かったのはアダムスだったということも明らかになった。

 1612年は、彼が平戸オランダ商館の事業をなんとかして軌道に乗せようと忙殺されていた時期と重なる。時間的余裕がない時には、どうしても誤記が増えるものだ。