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COMMUNICATIONS

エッセイ

悠然と窓外の美景を眺めながらの研究生活

呂順長(浙江工商大学教授/日文研外国人研究員)
2022年6月15日

 外国人研究員として日文研に赴任させていただいたのは2021年の夏の終わりでした。それからまだそんなに日が経っていない気もいたしますが、先日、本稿執筆のご依頼を受け、日文研での研究生活が早くも終盤に差しかかっていて、季節もまた夏を迎えようとしていることに気づかされました。

 1996年、国際交流基金のフェローシップで来日したとき、受け入れの大学は横浜にありましたが、知人の紹介で鈴木貞美先生代表の『太陽』雑誌に関する共同研究会に数回参加させていただいたことがあり、その時から日文研のすばらしい研究環境と周囲の自然環境に魅了され、機会があれば是非一度そこでゆっくり研究したいとの夢を持っていました。それ以来、都合でずっと申請する機会がなく、実現するのに四半世紀の歳月を要しました。

 この一年間、研究の方は一応「漢学者山本梅崖と来日中国人の知的交流」をテーマに、近代の日中文化関係に関する著書の原稿執筆をしながら、主に梅崖が自らの漢学塾にどのように中国人留学生を受け入れていたかに焦点を絞って調べています。周知のとおり、日清戦争後の19世紀末から1930年代にかけて、大量の中国人留学生が日本に来ていました。彼らはさまざまな学校に入学しますが、個人が開いた塾に入って勉強した例は少数にとどまります。しかし、梅崖は1897年の中国遊歴で多くの中国人知識人と知り合い、その人脈によって同年2名の留学生入塾を皮切りに、最終的には計10数名の留学生を受け入れました。特に1897年の2名の学生は、近代中国において初めて正式に中国の学校から日本に派遣された留学生であり、梅崖は近代中国人の日本留学という、日中文化交流史において極めて重要な出来事に最初にかかわった人物の一人といえます。

中国人留学生写真

梅崖が主宰した漢学塾の最初の中国人留学生(両側が留学生で、中央は日本人学生。背後に見えるのは大阪城か。高知市立自由民権記念館所蔵)

 日文研での時間は残り四分の一程度となりましたが、一年間、何よりも雑事に追われることなく、恵まれた環境の中で悠然として研究室の窓外の景色を眺め、無心に研究に取り組むことができたのは、至高の幸せとしか言いようがありません。

景色写真

研究室の窓より

 研究の話はこれくらいにしておきます。私は趣味として休日に山登りをしたりしております。この一年間はよくセンターの後ろにある山に登りました。その際には、動植物を観察することと景色を眺めることが最大の楽しみでした。山にはいろいろな植物が生え、秋には小さいながら鮮やかな橙色の実をいっぱいに結んだ野生の柿の木が印象的でした。センターのすぐ後ろの山の一部は野鳥公園にもなっており、色とりどりの木の実は鳥たちにとって恰好のエサとなります。

 山にはイノシシや猿もいると噂で聞いていましたが、まだ一度もその姿を見せてくれたことはありません。よく出会うのは鹿です。時には1、2頭、時には三々五々群れをなして悠悠と森の中を歩いています。屋内にいる時とは違い、野外に出ると、私たち人間は自らも同じ生物的要素の一つであり、さまざまな生物から恵みを得ながら共生していることをあらためて実感します。山の頂上に近づくと、京都盆地のパノラマが一望できます。正直言うと、最初にこの景色を見た時はあまりにも意外で感動を禁じ得ず、目を丸くしながら撮影したものです。かつて実際に見たことのある京都の山川や名勝の所在地をそこから一々確認することに夢中になっていました。

京都盆地写真

京都盆地を望む

つららの写真

軒に下がる氷柱の簾(図書館前、2022年2月21日著者撮影)

 結びになりますが、お世話になった先生方と事務職員の方々への感謝の気持ち、共同研究会、図書館の蔵書、日文研ハウスでの生活、食堂「赤おに」のこと、センター前の桜、京都の大雪、幼い頃以来50数年ぶりに見た図書館前の軒に下がる氷柱の簾(すだれ)など、ほかに書きたいことがまだまだ山ほどあります。制限字数を大幅に超えましたので、とりあえずここで筆をおきます。謝謝!