COMMUNICATIONS
「意義」への異議申し立て
何かをやろうとするとき、そのためのお金を必要とするとき、当然のようにして「意義」が問われる。そして書かれた「意義」は、往々にして表面的かつ総花的で、こちらが煙に巻かれた感じがする。
実際、この社会は「意義」が説明されたうえで行なわれたものであふれている。ならば、この社会がもっと良くなっていてもよいのだが、あまり良くなっている感じがしない(むしろ最近は悪くなっている感の方が強い。だからこんなことを考えてしまうのだ)。「意義」の意義はあるのか。
あるいは、筆者の専門である日本文学の意義について、もっとも平凡な答えとして「日本人として知っておきたい」というのがある(書店に並ぶ関連書籍の帯にはかなりの確率でその文言が付せられている)。即座に「外国人は知らなくていいのか」と反論したくなるが、そういう人たちは、日本人以外のことは眼中にないようだし、まして外国人がわかるはずもないと思っているようだ。巷にあふれる「日本すごい」もその延長線上にある。
たしかに「意義」が見いだせないものもあり、さらに「意義」が説明できないと、それ自体の存在が認められないことも多い。しかし、それができなくても、おもしろいもの、気分が良いもの、幸福感を与えてくれるものはたくさんある(私はそれこそが意義だと思う)。意義は価値意識と大きくかかわる。価値意識は時間・空間で大きく変動するものである。だから説明ができないからといって、意義がないというわけではない。むしろ「意義」が見いだせないものにこそ、今の価値を相対化する可能性があるのではないか。
あるものに魅了された経験があるとするならば、その「意義」によってではなく、そこにあったからという偶然性と、その人の感性によってではなかったか。だから「存在している」ということが大切なのだ。同時に自分が面白いと思うものは他人が面白いと思うわけではないというのも重要だ。人によって感性は違う。私があこがれるのは、一般に価値がない、意味がない、つまらないとされるものの魅力を見つける能力がある人だ。その人のおかげで、新たな発見をすることが多々ある。社会的、権威的に認められた「意義」だけではなく、よくわからないものが存在する余地を残しておくこと、それが成熟した社会の要件だと思う。

硫黄島で文学についてかんがえた(筆者撮影)