COMMUNICATIONS
居心地の良さと悪さと
「牛村さんは法学部のご出身でしたよね?」—日文研に籍を移して10年ほど閲した頃、ある同僚からこう訊かれやや驚いた。語学文学専攻の学部生だった身には、光栄な誤解でもあった。海外シンポジウムに同道したこともあり比較的よく話す仲だったが、私が対日戦犯裁判を学的関心の一つとしているため法学部の出と思ったのだろう。戦犯裁判を扱うと言っても法理論ではなく、戦後日本の精神史や文明論の視点からの考察を旨としていた。同様に、文明史の観点から明治期日本の陸上競技移入史にも30数年来の関心を抱き、折に触れて活字にしてきた。今なお学問の縦割り意識が残る日本で、対日戦犯裁判と陸上競技史の二つをテーマに掲げる者にのびのびと「研究」をさせてくれる場など、おそらく日文研以外にはない。それに思いを致すとき、わが身の僥倖を感じざるを得ない。
一方、その日文研は「日本文化とは何か」あるいは「日本人とは何か」を創立以来探求する研究機関でもある。学際性や国際性をいくら強調しようとも、「日本文化」や「日本人」は、「お家の学問」遂行にあたっては所与のものとして存在する。「日本叩き」が最盛期だった1990年前後の3年間を北米で過ごすなか、「われわれ日本人は」あるいは「日本文化の特徴は」で始まる日本人論・日本文化論に見え隠れする Japanese uniqueness 論に与することは出来ない自分が生まれた。人種の坩堝の米国で「アメリカ文化とは、アメリカ人とは」という議論が成り立ちにくい一方で、「日本文化とは、日本人とは」と時に得々と語る論調に疑念を抱かざるを得なかった。そういう議論は文化的優位性の主張であるとして、海外から批判の目が向けられるのも宜なるかな、の思いは今なお拭えない。
21世紀の世は inclusiveness と diversity を尊重する。「日本人というものは」と口にする時、無意識であろうとも日本人の多様性を認めない空気が漂うのを禁じ得ない。創立40周年を見据えた爾後の日文研が、さまざまな日本人やさまざまな日本文化を探求する研究機関として、内外の学界を牽引していくことを切に願っている。
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単著で共同研究成果論集をはさんでーー対日戦犯裁判関係と陸上競技史関係