COMMUNICATIONS
東京、京都。
「研究者になりたい。」
険しい道を行かねばならないのは、わかっていた。静岡に生まれ、東京で育ち、アメリカへ単身留学して高校と大学を卒業した。帰国後、東京の大学院に進学した際、終戦直後の占領期 日本でGHQとNHKが共同制作していたラジオ放送の調査を始めた。当時のラジオ番組には、敗戦した日本国民が戦勝国アメリカに向き合う声が残されており、私はそうした声の傾聴を通じて、日米双方の文化に育まれた自分自身とも対峙してきた。
研究に手応えを感じる一方で、ふと、走る足を止められたらと思うことも増えた。ある冬、京都への学会出張の折、そうした想いに苛まれた。「甘いもので元気になりたい」と、安易に「京都 和スイーツ おいしい」と検索し、掌でぼんやりと光るスマートフォンを行燈に、ある店を独り訪れた。
小説から抜け出てきたように風情ある甘味処だった。どこか祖父の面影がある店主に、気が付くと身の上相談をしていた。
「おねえさんだったら、なんでもできるんちゃう?」
そうだ、道は一つではない。
「……本当に、ご馳走様でした。」
席を立とうとした時、私の声にならない声を聴いてくれたのか、店主はぼそっと呟いた。
「こんどは、いつ学会でかえってくるかな。」
ろくにお礼も言えず、足早に店を出て、「最寄駅まで」と決めて少し泣いた。
冬が明け、春が来て、私は日文研の面接日を迎えた。集合時間の前に、知恩院を訪れ、桜にこっそりとエールをもらった。後日東京で、幸運にも採用通知を受け取った。吉報を誰より伝えたい人が、京都にいた。
電話をかけさせてもらおうと、片時も忘れなかった店主の店の名をパソコンに打ち込んだ。すると、目に飛び込んできたのは電話番号ではなく、信じられない二文字だった。
「閉店」
過去の声を聴く研究に没頭してきた私は、今日の声を受け止めることを避けてきたのではないか。対峙すべきは自分ではなく、他者であったにもかかわらず。
いま私は、日文研の先生方や事務の方々はもちろん、警備員さんや、ご近所のパン屋さんまでにも、優しく迎え入れていただいている。日文研に携わる人びとの声に包まれ、新たな研究を始め、新天地で自分なりに少しずつご縁を繋いでいけば、こう伝えられる日がきっと来る。
「学会で戻るどころか、私、京都に越してきてしまいました。」
再会を夢見る私は今日も、勇んで坂を駆け抜ける。