JP EN

COMMUNICATIONS

エッセイ

石造物の交流史を探る

劉恒武(寧波大学教授 / 日文研外国人研究員)
2025年1月16日

 現在、私は日文研で、日本に現存する中国製石造物の資料を主に利用しながら、宋元・日本間の交流について研究しています。ここで言う日本に現存する宋元「中国製石造物」は日本の学界のいわゆる「宋風石造物」の一部に属しますが、注目すべきは、「宋風石造物」には宋元中国製石造物だけでなく、当時来日した中国人職人や日本の職人が中国石造物を模倣して制作した作品も含まれているということです。これらの石造物の背後にある人物の往来・物品の流通・技術の交流といった史実を、「石造物の交流史」として織り成すことができます。

 日文研で石造物の交流史研究に専念できるのは幸いなことです。日文研では研究に一意専心でき、学術環境も非常に優れています。大量の資料を所蔵しているだけでなく、日本古代・中世文献史料を見ることができるデータベース(JapanKnowledge Lib)も便利です。何より、所内の先生たちとの交流はいつも良い勉強になります。ある日、受け入れ教員の榎本渉先生に日本の対外交流の窓口である九州の大宰府から京都までの行程の所要日数について質問したところ、約2時間後には『小右記』『延喜式』など5種類の文献から関係する記録を挙げて答えてくださいました。『周易・乾』には「君子学以聚之、問以辨之。*1」と書かれています。日文研のような「学」と「問」の殿堂で研究に従事することで、多くの収穫を得ることができます。

長崎県大村市・龍福寺跡でのフィールドワークの様子(大石一久撮影)

 歴史考古学研究者にとって、最も楽しいのは遺物・遺跡の実地調査です。昨年の5月、嵐山二尊院に空公行状碑*2を調べに行き、院内の年配の庭師に石碑の場所を尋ねたところ、「あの場所は探しにくいから、連れて行ってあげましょう」と言ってくれました。私はその庭師を支え助けながら小倉山中腹にある空公行状碑まで登りました。庭師は「もっと登ると、小倉展望台だ。そこから美しい景色が見えるよ」と、私に手を振って別れました。展望台に着くと、南宋慶元府(現在の寧波)の石工、梁成覚の作った石碑が私の目に入りました。この場所の景観は、最高に美しいと感じました。空公行状碑が立てられて771年後、私はおそらく寧波からこの地を訪れる最初の人です。石碑も私の感動を一緒に感じているかもしれません。

空公行状碑の銘文(拓本)の末尾に見える文字「大宋国慶元府打石梁成覚刊」(現代語訳:「宋国の慶元府の石工梁成覚より作成した」)(筆者撮影)

 6月に、榎本先生の紹介で堺市の薩摩塔*3の発見者である海邉博史先生と知り合い、堺市博物館に堺市薩摩塔(本州では初めて発見されたもの)を実際に見に行く機会を得ました。海邉先生に案内いただき、私たちは薩摩塔の実物を観察しただけでなく、元あった場所についても考察しました。私と一緒にそこに行ったのはブラウン大学のブリ―アン・ランダ―准教授 ・日文研外来研究員のジュリアン・ノア・タシュさんと馬雲雷さんでした。彼らの専門は古代・中世の石造物の交流史ではありませんが、彼らから異なる分野や角度からの意見が聞けました。これは言うまでもなく有益な見学でした。

堺市博物館所蔵の薩摩塔。今まで本州で発見された唯一の薩摩塔(筆者撮影)

 日文研所内での研究や交流ではつねに面白い発見に出会え、日文研所外の調査や見学ではいつも美しい風景がみられます。私にとって、石造物の交流史を探る道はここから遠くへ伸びています。

<こちらのテーマにご関心おありの方は下記の書籍もご覧ください>

*1 『易経』乾・文言伝の一節。
「君子學以聚之、問以辯之、寬以居之、仁以行之。」
【訓読】君子は學以て之を聚め、問以て之を辯じ、寬以て之に居り、仁以て之を行ふ。
【現代語訳】君子は広く学びあまねく知って、もろもろの事物の道理を身に備えて余すところがなく、(すでにそれを身に備えたならば、)先知先学の人に質問してその是非を定めて事物の道理をはっきりさせる。
(『易経 上』 鈴木由次郎著、集英社、1974年、p.75)より引用。

 

*2 空公行状碑は京都二尊院に安置されている宋風石碑であり、建長五年(1253年)に造立されている。高さは227cm。その製作者は石碑の銘文で南宋の慶元(現在の寧波)から渡来した石工梁成覚と推定できる。

 

*3 薩摩塔は中国から日本に舶来された石塔であり、様式上で壺状の塔身が特徴的(堺市薩摩塔の写真を参照)。その年代範囲はおもに12世紀末~14世紀半ばだと考えられている。その分布地域は九州の北部・北西・南西に偏在しており、2024年時点で本州では堺市薩摩塔一基のみが発見されている。