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COMMUNICATIONS

エッセイ

ハワイ収容所跡地を72年後に再訪する

秋山かおり(大阪大学助教 / 元機関研究員)
2024年8月1日

 昨年6月に英語の論考を出版した。沖縄戦でアメリカ軍の捕虜となり、ハワイへ移送されて収容生活を経て沖縄に戻った男性2名が、2016年に慰霊祭のために72年ぶりにハワイを訪れたことを書いたものだ。この時、二人はすでに89歳と92歳だったが、1945年当時に自身が収容されていたオアフ島のホノウリウリ収容所跡地を訪れたのだ。慰霊祭は収容中に亡くなった沖縄出身の捕虜12名のために開催され、沖縄県在住の遺族や協力者とハワイの沖縄系住民などが後援した(写真1)。

(写真1)
ホノウリウリ国定公園を訪ねた元捕虜、古堅実吉氏(左から2番目)、渡口彦信氏(中央)。
沖縄系4世ブランドン・イングさん(右)の沖縄民謡に耳を傾けた (琉球新報社提供 2017年6月7日掲載記事)

 さて、私がこの慰霊祭で参与観察を行った内容を論集に寄せるように声をかけてくれた編集者たちがいた。彼女たちは新型コロナウイルス感染症の影響をもろに受けながら出版に漕ぎ着けた。この論考では一部の捕虜たちが受けた非人道的な体験に関する内容をあえて選び、彼らの言葉を伝えた。沖縄からハワイへ送られた捕虜は3,000人以上、そのうち一部がアメリカ軍の船の底に全裸で押し込められ、暗くて蒸し暑い環境で2週間ほどハワイまで移送されたことがわかっている。捕虜仲間は彼らを「裸組」と呼んだ。

 彼らが受けた体験から生まれるイメージとは異なり、慰霊祭は穏やかに行われ、沖縄系住民との盛大な懇親会では歌や踊りの明るい催しが続いた。捕虜たちが収容中に沖縄系住民から食料、物資、あるいは精神的な援助を受けたことについてその子孫に感謝を表明した場面もあった。

 なぜこのような72年ぶりの捕虜体験者の現地訪問が可能であったのか。一つは、彼らがまだ16歳、18歳の若い時に沖縄戦に動員されて不運にも捕虜となったからである。沖縄では、メディアによる慰霊祭の計画が広く報道されて「知られざる沖縄戦の物語」として関心を得た。さらに、収容所跡地は20年ほど前に確認されて地元ハワイで注目を集め、2015年にアメリカ国立史跡として認定されたのち、整備が進み始めていた時期だった(写真2・写真3)。しかし、自らの戦争体験を長い時を経て、とりわけ実際に収容された場所に立ち戻りながら、思い出し伝えることは当事者として容易なことではない。我々がいかにその共有された心情に寄り添えるかが問われるのである。

(写真2)
ホノウリウリ収容所概観 ハリー・R・ロッジ撮影 (ハワイプランテーションビレッジ所蔵)

(写真3)
収容所跡地整備のための考古学調査 (2014年7月5日 筆者撮影)