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COMMUNICATIONS

エッセイ

2.5次元の京都

クレリア・フローランス・ゼルニック(日文研外国人研究員)
2024年6月26日

 2000年、村上隆は「Super Flat(スーパーフラット)宣言」として「日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいまはsuper flat」と高らかにうたいました。それ以来、アーティストたちが提示する未来像は、気候危機を背後に、二つの極、すなわち、村上による大胆な未来予測を思わせるハイテクな描写と、2011年3月11日や新型コロナのパンデミックの経験に駆り立てられた、カタストロフ(大惨事)を語る終末論的なビジョンとの間で揺れ動いてきました。

 私が国際日本文化研究センターに滞在し、日本の現代美術を研究している間に、村上隆の大規模個展「村上隆 もののけ 京都」が京都で開催されるのは、うれしい巡り合わせでした。これは2024年のはじめから京都市京セラ美術館で開催されている、村上の記念碑的な個展です*1

 来場者は、展覧会にあふれる再生への希望を目にすることになります。会場で出迎えてくれるのは、赤と青の巨大な《阿像》と《吽像》。これらは元々は3.11の惨事を受けて、私たちを守ってほしいと制作された作品です。ピンク色の桜の花を描いた大きな壁画も展示され、自然界が春に再生を迎えるさまを思わせます。ところが、今回の2024年の展覧会で披露されるのは、一世を風靡したスーパーフラットへの回帰というよりも、新たに蓄えられた怒りであり、背景(バックグラウンド)には抗議の声が吹き出しています。会場では随所にマンガ風の吹き出しが設置され、村上の思いを生々しく伝えており、そうすることで展覧会のスーパーフラットな表面を脱構築するのです。

 その吹き出しは「洛中洛外図」の雲にも似ており*2、異なる次元を喚起し、2次元で地図を表現する技法を連想させます。 村上は吹き出しを通して、一部の作品が未完成であるという事実や、 物販スペースが会場の5分の1 を占めること、予算がなかったこと、何もかもが急ごしらえだったことを弁解しています。そのうえ、展覧会の資金調達について詳しく触れたり、日本の税制や彼のスポンサー、画廊主 について思うところを述べたりもしています。そうしながら相手構わずジャブをお見舞いすることで村上は、自身の皮肉(アイロニー)でもって、展覧会の表面に刻み目を入れたのです。

 この展覧会は、さまざまな点においてスーパーフラットの極みといえるもので、京都の伝統美術とポップアートを接合し、古都・京都を村上のクリーチャーがひしめく世界に変容させました。しかし同時に、スーパーフラットという概念の限界も暴いており、例えば展覧会入口に掲示されている村上が書いた吹き出しは、スーパーフラットにまつわる複数のアポリア(哲学的難題) をあらわにしています。吹き出しが指し示すのは、スーパーフラットの向こうにあるなにものかの存在です。それは、その2次元の描写をこえて論争や契約の痕跡を示し、村上が主張する幼児化を際立たせる以上の役割を担っています。この展覧会のバックグラウンドやコンテクスト、多義性が、てかてかとした表面に焼き付けられているのです。強烈な色彩の裏には村上の明らかな不満がうごめいて、揺らぎの感覚、平面(フラット)の振動を引き起こします。ポップはもはや勝ち誇ってはいません。自己資金を投入し、自らを助成し、背景に擬態し、アンダーグラウンドに潜み、海賊的に展開しています。

 その結果、ハイテクな未来と迫り来るカタストロフの狭間において、中間の領域(グラウンド)が開かれます。アートの未来はバックグラウンドにあり、アンダーグラウンドにあるのです。

 日本の現代美術を「2.5次元」で味わえる今春を、ここ京都で過ごせるのは大きな喜びです。

春、展覧会の模様 (著者撮影)

*1 京都市京セラ美術館にて開催、「京都市美術館開館90周年記念展 村上隆 もののけ 京都」(会期2024年2月3日~9月1日)

*2 本展には、村上が岩佐又兵衛の《洛中洛外図屏風(舟木本)》を引用して描いた《洛中洛外図 岩佐又兵衛 rip》が展示されている。