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『吏部王記』に見える大原野行幸と天皇の杜古墳
京都駅から日文研に通う21系統のバスに乗ると、公家源氏の邸第や『池亭記』の故地がある五条通を通るのであるが、平安京を外れて桂川を越え、御陵町と国道三ノ宮というバス停の間に、前方後円墳の形状をしている小さな森がある。
それは五世紀前半に築造された墳丘長85メートルの天皇の杜(もり)古墳であった。京都市域では最大の古墳である。ところが後で調べてみると、何と中近世には文徳天皇陵と考えられていた。御陵町という名も、何やら曰くありげである。
最近、醍醐天皇の皇子である重明(しげあきら)親王が記録した『吏部王記(りほうおうき)』を読んでいたら、延長六年(928)12月5日に行なわれた大原野行幸の途中で、この古墳に関わる次の記事を発見した。
醍醐天皇は朱雀門から五条大路に至り、西に折れ、桂河に到った。・・・桂路からに入った。・・・御輿は墳に到って朝膳を進上した。親王・公卿は平張(ひらばり)の座に着した。墳頂に於いて眺望した。・・・天皇は墳路を降りた。
というものである。古墳はすぐに木が生えるはずで、登れて眺望が効くとなると整備されていたことになる。この古墳は実際には秦氏の墳墓だったと思われるが、もしかすると、本当に当時は文徳陵とされていた可能性もあるのではなかろうか。
そうすると、文徳とは皇統の異なる醍醐がその上に登るというのも、何やら象徴的である。嵯峨-仁明-文徳-清和-陽成と続いた直系皇統が絶えた結果、世代が遡った仁明皇子の光孝が即位した。光孝は皇子をすべて臣籍に降下させたのに、光孝皇子の源定省(さだみ)が皇族に復帰して即位し(宇多)、その子の源維城(これざね)も皇族に復帰して即位したのが醍醐なのである。
醍醐にとっては、旧皇統の文徳の陵など、物見の高台程度にしか考えていなかった可能性も、十分に考えられるのである。
天皇の杜古墳は宮内庁管理ではないので、我々も墳丘に登ることができる。なお、幕末に治定された文徳天皇田邑(たむら)陵は、実は太秦三尾(うずまさみお)古墳という古墳時代後期とみられる六世紀の円墳である。京福電車の鳴滝駅の近くである。もっとも平安時代の天皇はほとんどが火葬なので、大きな墳丘を持つ陵は造られなかったはずである。
などと考えながら、日文研に通った日々がもうすぐ終わる。この古墳を見ることも、もうないであろう。