COMMUNICATIONS
三木清とともに歴史を考える
私は国際日本文化研究センターに在籍している間、三木清(1897~1945)の歴史思想に取り組みました。三木は哲学者・西田幾多郎の教え子で、20世紀初期の日本で最も前衛的であった知識人のひとりです。目を見張るほど精力的に活動した彼の人生は、獄中死という悲劇的な結末によって早すぎる終止符を打たれました。太平洋戦争終結からわずか数週間後、1945年9月26日のことでした。三木は当初、文学に関心を持っていましたが、西田の『善の研究』との出会いによって、哲学に情熱を見出します。それ以来、人生を哲学に捧げました。
三木は京都帝国大学を卒業後、1922年から1924年までハイデルベルクとマールブルクで過ごし、マルティン・ハイデガーらの講座で学びました。帰国後はマルクス主義に取り組み、独自の人間学的なマルクス解釈を展開します。1930年代、三木の著作は新たな展開をみせ、哲学的人間学、人間主義(ヒューマニズム)、構想力(イマジネーション)論に焦点を合わせます。三木は、構想力のことを、人間の感性と知性を弁証法的に結びつける重要な能力だとみなしています。彼の生涯にわたる関心は、人間存在の前意識的・非理性的な要素を理論的に掴み取り、それらを知性と平衡させることにありました。後に記した技術哲学の著作や、中世仏教の改革者たる親鸞を論じた遺稿からは、三木の知の深さ、テーマの幅広さがうかがえます。
私の研究に関連する三木の著作の大半は、『歴史哲學』(1932)から『構想力の論理 第一』(1939)に至る時期に執筆されました。三木の歴史への関心は、学生時代にまでさかのぼります。大学でイマヌエル・カントの哲学を学んだ三木は、卒業論文ではカントの歴史哲学を論じることになりました。ドイツでは、ヨーロッパで展開する最新の大陸哲学に出会い、ハイデガーやマルクスに大きな影響を受け、彼の理論を人間の実存的歴史性の解釈へと推し進めます。三木にとって重要であったのは、人々が相互に作用しあう現実の社会状況を考察することでした。
しかし、知識人として問題がなかったわけではありません。1938年から1939年にかけて、三木は近衛文麿の諮問機関である昭和研究会の一員となりました。その著作には戦時プロパガンダと超国家主義(ウルトラナショナリズム)の傾向が色濃く表れるようになり、傑出したリベラリズムがみられる他の著作との間に矛盾が生じます。この点が、三木の歴史思想を評価するにあたっての課題となっています。
日文研では、三木清という刺激的な哲学者を研究するかけがえのない機会を頂きました。私の通常の専門は、日本の近代以前のインテレクチュアル・ヒストリー、なかでも11世紀から14世紀の貴族の政治思想・宗教思想です。三木とともに私は新たな研究領域を探求し、それは日本の近代史研究と歴史をめぐる議論の背景を理解するのに役立ちました。
ドイツへ帰国後は、日文研を取り囲む美しく静謐な環境が与えてくれたインスピレーションと、日本の史料や調査研究への簡便なアクセスを懐かしむことになるでしょう。折に触れて日文研の図書館をあちこち歩いて回ったものです。私は本に囲まれるのが好きで、目に付いたさまざまな本を読むだけでも大いに触発されます。ときには、この研究の鍵となる発見もありました。親切な司書の方々にも大いに助けられました。