COMMUNICATIONS
五感を通じて認識される無常
私は「無常」について日本文学とペルシア文学を中心とした比較研究を行っているが、これまで無常のことを主に時間という文脈で考えてきた。人生の儚さのような長いスパンでの無常と、個々人が一生を過ごしていく上で自分なりに感じ取る短いスパンでのちょっとした無常、という具合に。
ところが、無常に関する日本文学のとある一節と、イランの詩人オマル・ハイヤーム作『ルバイヤート』のとある記述に触発されて、無常を「五感」という、全く斬新な視点から考え直すことにした。
良寛の辞世とされる「散る桜 残る桜も 散る桜」、あるいは、『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」からもうかがえるように、基本的にわれわれは無常を「眼」で認識する機会の方が圧倒的に多いだろう。しかしこれは視覚のみが無常の認識を独占しているという意味ではない。例えば、あっという間に口の中でとろける天然まぐろの中トロを、味覚を通じて感じ取るちょっとした無常とすれば、花々の香りは嗅覚を通じての無常になるし、また赤ちゃんのふわふわした身体も触覚を通じての無常であろう。これらはいずれも永続きしないという点で共通しているのはいうまでもない。
一方で、『平家物語』の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という一節について考えてみると、これは聴覚による無常認識となっているといえよう。
なるほど、突如として耳に入る訃報は世界共通の無常認識ではあるが、祇園精舎に元々ありもしなかった想像の鐘を設け、しかもその鐘の音の響きから「無常」を抽出するというのは、まさに音に敏感な日本人ならではの発想としかいいようがない。日本語のオノマトペが豊富であるのも、このこととは無関係ではないと思う。俳句の代名詞である松尾芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」も「ぽたん」という擬音語が連想されてはじめて成立する描写ではないか。このように祇園精舎の鐘の声で無常を連想する日本人と違って、キリスト教文化圏に住む人は、教会の鐘の音で無常を連想することは、まずないと思われる。
聴覚による無常の認識で興味深いのは、『平家物語』と『ルバイヤート』における見方の違いだ。『平家物語』では、鐘が鳴ることで無常が響き漂うことが読み取れるのに対して、『ルバイヤート』には「廃墟と化した城。鳴らなくなった太鼓の音」という無常の描写を確認できる。昔のイランでは、帝王が出御するときに太鼓を鳴らす習慣があった。いくら偉い帝王であってもいずれはその城が廃墟と化すというこの描写は、『平家物語』で強調される「盛者必衰」の原理と一致する。しかし、太鼓の音のように、聞こえなくなってこそ認識される無常は、祇園精舎の鐘の音のように、聞こえてきてこそ認識される無常とは正反対となっているわけだ。
このように、無常は私にとって興味の尽きない課題となっている次第である。