COMMUNICATIONS
ウクライナ侵攻から考えること
日文研での着任前に、勤務先のカリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)で「脱植民地化の世界史」を教えていた。この授業は、アルジェリア、ベトナム、マルティニーク、キューバ、インド、中国における帝国主義批判や脱植民地化闘争を検証しながら、近代世界において「主権」、「自己決定権」、「民族主義」、「自由」、「平等」、「人種」といった概念が持つ意味とその歴史的な役割を学び、議論することを目的とする。授業の内容がウクライナ侵攻と重なり、白熱した議論を生むことになった。
あるウクライナ系の学生は、フランツ・ファノンやホー・チ・ミンの民族独立闘争に共鳴しつつ、自国の自由と独立を守るために「民族主義」は必要なイデオロギーであり、決して否定されるべきものではないと主張する一方、ロシア系の学生は、ロシア侵攻を批判しつつもロシアにも「民族自決」の権利はあり、同じスラブ系の人々は対立すべきでなく団結すべきだと言い張った。
それに対し、「民族主義」とは文化的あるいは人種的相似や同一性を意味するのではなく、自分達が理想とする社会を築き上げるための「共感」のようなものであり、自由や民主主義の理想を共有できないロシアとは決別すべきだともう一人のウクライナ系の学生が切り返した。そして、「だからこそ、ウクライナは欧州連合の一員となることを望むのだ」と続けた。
議論にじっと耳を傾けていたアフリカ系の学生が口を開いた。「この授業で学んでいるのは、まさにその欧州が始めた植民地的資本主義による支配と搾取、また人種差別による抑圧の歴史だ。西側諸国を自由と民主主義のチャンピオンと理想化し、ロシアを悪の帝国とする言説に違和感を感じる」と鋭く指摘した。この学生は、「文明化」の名の下に400年にわたって西欧諸国が行った奴隷貿易、先住民殺戮、自然破壊に近代の矛盾と偽善をみていたのだ。
マスメディアはロシア軍がウクライナから撤退しはじめたことを報道し、ウクライナを支えた「民主国」の勝利のような論調を作り出している。確かに、ウクライナ侵攻は糾弾されるべき蛮行である。しかし、ウクライナを背後から支えてきた日本も含む「西側」が、あたかも、自由と民主主義のチャンピオンのように報道されることには注意を払わなければならない。UCLAの学生たちが繰り広げた議論は、近代世界を生み出した暴力、とくにその責任主体である「西側」がもたらした傷痕と歪みが何一つ消え去っていないことを物語っている。
UCLAが主催したウェブセミナーに登壇したウクライナ経済学者は、プーチンは19世紀以来西側諸国が始めた帝国建設を今でも諦めきれずにいる支配者の一人に過ぎないと述べていた。そのような帝国的心性に取り憑かれてきた支配者、国家、国民は、プーチンとロシアだけではないことは、日本の近代史が示すところだ。
世界で排外主義、人種主義、貧富の格差、社会経済的弱者の見放し、環境の危機が急速に広がっている。近代とは一体どのような時代だったのか。かつての軽佻なポストモダニズムの議論とはまったく異なる意味で、近代を越えていくような展望が必要とされている。日本研究もそれへの貢献が期待されている。